まじょこ、というのが彼女のあだ名だった。
 だが、彼女に向かってその名で呼びかける人間はいなかった。
 つまり、親しみを込めてつけられたあだ名というよりはむしろ「自分たちとは 違う」という距離を表すためのもので、その名が誰かの口に上るとしたら、冷笑 混じりか少なくともこそこそと声のトーンを落としてのことがほとんどだった。
 いつのまにか誰かのもののはずみで生み出され、無論本人の許可もなければそ もそも本人に向かって使われることのない「まじょこ」という名だが、その名に ついて「なぜだろう」と首をかしげる人間はほぼいなかった。
「まじょこ」の由来はそのまま彼女が魔女らしい雰囲気を持っているから。魔女 といってもいろいろいるのだろうが、彼女の場合はいわゆる「魔女っ子」という 萌えの一ジャンルではなく、「どことなく不気味」「ヘンな魔術を使いそう」「 ヒキガエルを食っているに違いない」など、つまるところ「気味が悪い」とほぼ 同意だった。
 それに、彼女は占いをする。
 女子の中には「まじょこ」に相談を持ちかける者もあるらしい。女子に限らな いというウワサも聞く。このあたり、普段はほぼ存在自体を無視しておき、気が 向いたら仲間内でからかう対象として遊んでおいて、悩みができたら(ほぼ100% 恋愛の悩みだろう)すりよって占ってもらおうというその調子の良さにはある種 の感心を覚える。
 反対に、「まじょこ」はその相談の内容はもちろんのこと、相談を持ちかけた 人間が誰かさえも一言ももらすことはない。と言われていた。それは別に彼女個 人の誠実さを信頼しているからではなく、ただ単に「まじょこ」にはそんな話を する相手がいないと思われているからである。
 実際に僕は、彼女が誰かと自由に楽しく話をしている光景に出くわしたことが ない。
 そういえば、占いが行われている場面に出くわしたこともない。それはクラス の誰にとっても同じことのはずだが、なぜか「まじょこ」が占いをやることは知 られていて、それが恐ろしいぐらい当たることもどういうわけだか知られている 。そんなことだけが知られていて、「まじょこ」はどんな俳優が好みなのだとか どんな音楽を聴くのかとか、趣味とか足のサイズとか、家族構成とかスポーツ中 継は見るのかとか、彼氏がいるのかとか彼女がいるのかとか、そういったことは 一切知られていなかった。
 結局のところ、「まじょこ」は嫌われているのでも好かれているのでもない。 何かわけのわからない力を持っているかもしれない奇妙な少女として、遠ざけら れている。
 そうだ、家にテレビがあるのかどうかも定かではない、恋の噂のひとつもない 、そんな話には一切乗ってこない。いくら黙っていてもいつも一人でも何を気に する風でもない。この年頃でそんな女子というのはそれだけでめずらしいのかも しれない。

 一度、クラスの男子がふざけて「まじょこ」に告白をしたことがある。
 そいつはあろうことか「まじょこ」の本名を度忘れしてしまい、「好きだ、… …まじょこ」などと言ったらしい。
 結果は無残なものだった。
「まじょこ」はそいつに見向きもしなかった。
 別にふざけて告白してふられても、よほど変な方向にプライドが高い奴でない 限りは決まりの悪そうな笑みを浮かべるだけで終わるのだが、何が悲惨だったか というとつまり、そいつは本当に「まじょこ」に惚れてしまったのだ。順序はお かしいような気もするが、ともかくこうなると事情は変わる。
 そいつは男の僕から見てもそれなりにモテそうなツラをしていると思えたし、 人当たりも悪くない。悪ふざけが少しばかり過ぎるところもかえって女子には好 感を持たれることもあるらしい。
 そんな男が、どこからどう見てもモテの対極にいる「まじょこ」(それは、彼 女に魅力がないという意味ではなく、そういった恋愛の対象に非常になりづらい 、という意味だ)に惚れてしまい、挙句一言も聞き出すことができないまま悄然 と日々を暮らす羽目になってしまった。
 言霊、ということばがある。嘘から出た誠、ということわざもある。
 不用意にそんな嘘を口にしないことだ。
 僕が得た教訓はそんなところだが、これが女子にかかると「魔法だ」というこ とになる。あるいは、恋に効く秘薬があるとかないとか。
 彼女たちの世界は楽しい。
 僕はそう思う。

 要するに、僕は「まじょこ」の占いの世話になる日が来ようとは夢にも思って いなかった。
 でも、その日は来たのだ。
「おまえ、ちょっと聞いてきてくれよ」
 相談をもちかけられたのは、もう暦上は確実に秋なのにまだ暑いある日のこと 。
 学校からの帰り道、もうだいぶ年季の入っている学カバンをぶらぶらさせなが らだらだら歩き、ずいぶんと日が暮れるのも早くなったよなぁ、なんてぼんやり 考えていたときのことだ。
「へ?」
 隣の友人――ノリユキのほうを振り向いてみると、彼は思いのほか真剣な表情 をしていた。
 ノリユキはわりと真面目な人間だが、いつもはどちらかというと弛緩した顔を していることが多い。だから僕とも気が合うのだろう。
「あのさ」
「あん?」
 僕の返事はノリユキの声の緊張と全然釣りあっておらず申し訳ないぐらいだっ たが、ノリユキはそれにも気づいていないようだった。
「聞いてきてくれよ、な。頼むから」
「何を? 誰に?」
「だから、さっきから言ってるだろ」
 ノリユキの中ではもう十分に説明は尽くされているようだった。そういえば、 校門を出てしばらくしてから、なにやらぼそぼそ話していたが、その声があんま り低いので僕は途中から適当に相槌を打っているだけになっていたのだった。
「すまん、もう一回」
 それほど大事な話なら堂々と話しゃいいのに、と思いながら手を合わせて気楽 に謝ると、ノリユキは一瞬目を吊り上げた。彼が怒るとは、よほど大事な話だっ たらしい。僕は急いで記憶のリールを巻き戻す。
 そう、ノリユキは「好きな子ができた」とかそんな風にいきなり切り出したの だ。僕は「ふーん」と言っただけだ。協力できそうにないし、あんまり興味もな い。ノリユキの精神活動に興味がないのではなく、僕に相談する理由がないと思 う。話したいのなら聞くが、それだけだ。  ノリユキは誰を好きになった、と言っていたのだろう。
 アベ? イシカワ? ウツミ? エトウ? オクノ? ……ワタナベ?
 そうだ、ノリユキが告げた名前の女子を僕は知らなかったのだ。いや、知って いるのかもしれないが、すぐには思い出せなかったのだった。
「だから、『まじょこ』に聞いてきてくれって」
「あー、そうだった。……っておまえ、『まじょこ』が好きなの?」
 思わず問い返すと、ノリユキは盛大なしかめ面をした。
「ちげーよ、『まじょこ』に、だからその、あの子のこと聞いてきてくれって言 ってんだろ」
「あ、そうか。……で、あの子って誰だったっけ?」
 それを聞き出すために僕は帰り道までの全行程を費やすハメになってしまった 。

「わかったか? 今度は聞いてたな?」
 もうそろそろ分かれ道、というところでノリユキは眉間にしわを寄せて僕を横 目でにらんだ。
「わーったって。ちゃんと聞いてたよ。タカハシレイコだろ、3組の。そいつが おまえに気があるかどうか、『まじょこ』に尋ねればいいんだろ。な、カンペキ 」
「ふん……」
 ノリユキはまだ疑わしそうな顔をしていたが、いよいよ別れ際になってごそご そとカバンからなにやら取り出した。
「じゃあ、これ」
「何これ?」
 差し出されたそれを反射的に受け取ってみると、それは一枚のカードだった。
 プラスチック製の、トランプカード。
 ひっくり返してみると、黒い影のような人物が横を向き、足を一歩前へ踏み出 すような格好で立っている。人かと思ったが、妙に鼻面が長い。ぴんと立つ耳も ある。
「なんだこれ」
「ジョーカーだよ」
「ジョーカー?」
 確かに、カードの隅、ほかのトランプカードにならハートとかスペードとかの マークと数字が書かれているところに、JOKERとの文字が見える。だが、それと「 まじょこ」とどう関係があるのかわからなかった。
「なんで?」
 ノリユキは「知らないのかよ」と呆れた様子でため息をついた。
「これと引き換えに占ってくれるんだよ、『まじょこ』は」
「へー、金取らねんだ? ……にしても、変わった絵だな。これ、犬? 人?」
「自分で調べろ。とにかく、頼んだからな!」
 そういい捨ててノリユキは思い切り大股の早足で曲がり角へと消え去ってしま った。
 その背中を見送ってしまうと、僕はなんとなく手の中のカードに目を落とした 。
 真っ黒な犬とも人ともつかない影は、身の丈ほどもある長い杖のような物を手 にしている。どこかで見たような気もするが、よくわからない。
「まじょこ」がジョーカーを集めているなんて初めて知ったが、あんまりいい趣 味とは思えなかった。

 翌日。
 僕はうっとうしいことはすぐに済ませてしまいたいと思うタチなので、さっさ と「まじょこ」に相談を持ちかけることにした。
 いつも一人でいる「まじょこ」に話しかけるのはなかなか目立つ。見ていない ようで全員が見ている。
 だが、そういうことは気にせず、昼休み僕は彼女に話しかけた。
「なあ、ちょっと」
 声をかけてから、すぐに失敗したなと思った。
 僕は「まじょこ」の本名を記憶の底から呼び出しておくのを忘れていたのだ。 どうにか彼女の名前を呼ばないで会話を成立させなければならない。
「……」
 彼女はまともに僕を見たが、その唇がぴくりとも動いたようには見えなかった 。いきなり返事がないとは先が思いやられる。
「ちょっとそのなんだ、占ってもらいたくてさ」
 しばらく待ったが返事はない。
 僕は面倒になってきて、さっさとジョーカーを差し出した。
「これで」
 すいっと机の上を滑らせたジョーカーをちらりと見て、「まじょこ」はやけに ゆっくりとまばたきをした。
「……あなたのこと?」
 小さいがはっきりした声。僕は不思議な気分になった。初めて聞いたわけでも ないのに。
「いや、ノリユキ……浜野のこと」
「いいよ」
 あっさりと承諾の返事が返ってきて、僕はいささか拍子抜けした。
 そのあっさりさ具合もそうだが、「いいよ」と、想像していたよりかなり気さ くな物言いだったことにも小さな驚きを覚えた。
「じゃあさ、今日放課後でもいい? どこでやんの、いつもは」
「今日はここで大丈夫」
「……あ、そ」
 確かに僕らの学校はすでにテスト準備期間に入っており、つまりここ数日は「 みなさんはやくおうちにかえりましょう」期間なのだ。今日は金曜日で、テスト は週明け火曜日から。半端で面倒くさい。
 ノリユキは試験のことを計算に入れていたのだろうか。「まじょこ」の答えに よっては試験どころではないという可能性を考えはしなかったのだろうか。オロ カな奴だ。
「今日で大丈夫なの?」
 彼女の名前を呼ばずに済んでちょっとほっとして尋ねると、「まじょこ」はわ ずかに、どこか無機的に首をかしげて答えた。
「めずらしいカードだから」

 放課後、クラスメートたちはさっさと帰っていった。全員が全員テストに備え てさっさと帰宅するような人間ではないのはわかりきったことだ。校門を出てか ら行動に出る者もいるだろうが、教室でだらだらする奴がいてもおかしくない。 だが、今日は皆が皆、えらくおとなしく教室を出て行った。
 これは単に今日が金曜日で、皆さっさと学校を離れたいだけのことなのか?  それとももしかして、これが「まじょこ」の力なのか。
 ふとそんな考えが頭をよぎったが、あのとき教室にいた生徒の多くは僕が「ま じょこ」に話しかけているところを見ているはずなので、ひょっとしたら「気を 利かせた」のかもしれない。それも力といえば力と呼べるのだろうか。
 ともかく、時間稼ぎのためにトイレを出て、なにやら落ち着かない気分で帰っ てきたときには、すでに教室には「まじょこ」しか残っていなかった。
「まじょこ」は自分の机の上にトランプをすでにセットしていた。束は二つある 。一つはなめらかなプラスチック製で、もう一つの束はカードの大きさも質もま ちまちのようだった。そのいちばん上には、今朝僕が渡したジョーカーが絵柄を 伏せ裏向きに置かれている。
 僕は「まじょこ」の前の席の椅子をまたぐようにして座った。背もたれの上の 部分を腕で抱えるようにして、その上にあごを置いて「まじょこ」を少し上目遣 いに見てみた。
 手元のトランプを見ている「まじょこ」は、なぜ彼女が「まじょこ」と呼ばれ るのかちょっとばかりわからせてくれた。
 簡単に言うと、「なんか違う」のだ。「なんかヘン」と言ってもいい。(ただ し、必ずしも悪い意味ではない。)
 意外に可愛い。と言えるかもしれない。
 可愛い、というと少し違う。かもしれない。
 いわゆる美人の顔立ちではない。それを自覚しすぎてわざわざ魅力を減らして いる、そんな印象……というのでもない気がする。卑屈なものは感じないが、彼 女は意図的に目立たないようにしているように思えた。
 しかし、彼女の指は違っていた。「まじょこ」の指は圧倒的に美しく、それは 惜しげもなく僕の目前にさらされている。
 僕は手フェチでもなんでもないが、細長くて白い指と、やはり細長い楕円形の ほんのり桜色をした爪は、これまで女子の指を観察したことなどなかった僕をし て一瞬で「女の子の指ってきれいだな」と思わせた。
「……指、きれいだな」
 僕は思わずつぶやいていた。言ってしまってから、顔をほめずに指だけほめる というのもどうなのだろうかとちらと思った。だが、別にくどいているわけでは ない。変に弁解して墓穴を掘るよりもスルーすることにした。「まじょこ」のほ うは全然気にした風もなく、つるりと礼を述べた。
「ありがとう」
 もう百回も千回も言われたほめ言葉へのお礼のように、「まじょこ」の声には 熱のひとかけらもなかった。恥じらいや媚のようなものも一切含まれていなくて 、僕はちょっとばかりむっとした。そして、そのむっとしている自分に対してま たなんとなくむっとした。
「じゃあ、占うけれど。どんなこと?」
 僕は、ノリユキが好きだというタカハシレイコがノリユキについてどう思って いるのか知りたがっている、と告げた。
 承諾があるとはいえ他人の秘密を打ち明けるわけだから、さすがの僕も少しば かり緊張したが、「まじょこ」の反応はなかった。他人の恋愛などどうでもいい ことなのだろうか。そんなことは秘密でもなんでもないのか。誰かに話す価値も ないのか。
「まじょこ」はプラスチック製のきれいなほうの束を手に取ると、慣れた手つき でカードを切り、しゅるっと机の上を滑らせて見事な扇形に展開させた。
「一枚選んで」
「あ、うん」
 僕は、右手のいちばん近くにあったカードを適当に引いた。
 全然占いなどしたことがなかったが、代理でも結果は同じなのだろうか。どう でもいいが、僕の責任にしてほしくない。
 だが、何の説明もないまま、カードを裏返して見ることもないまま、「まじょ こ」は僕に続けてカードを選ばせた。
 そして13枚目のカードを選んだところで、手を伸べて僕を制した。もしかした ら僕を制したのではなく、カードの上に手をかざしただけだったのかもしれない 。
「……何? 終わり?」
「裏返して」
 言われるままにカードをひっくり返す。
「まじょこ」はそのカードを見て、「ダメね」と一言だけ言った。
 なんてこった。
 僕は頭を抱えそうになった。
「何がダメなのかな、ちなみに?」
「理由は教えられない。わたしの占いには結果しかないの」
「はぁ……。それは、理由はわからないってこと? それとも、教えねーよって こと?」
「どちらでも同じことよ」
 淡々と言うと、「まじょこ」は優雅に指を滑らせすべてのカードを集め一束に まとめた。トントン、と机の上で縦横をそろえる。
「じゃ、しょうがないよな。ノリユキにはそう伝えるよ」
「それで? あなたには何か聞きたいことは?」
「え?」
 意外な質問に、僕は思わず「まじょこ」の目を見た。
 大きな黒目がじっと僕を見ている。意外に切れ長で、まつげも長い。どこか異 国風の容貌のような気がしてきた。僕はなんとなく目をそらしてしまった。
「あー、えーと、でも、ジョーカー持ってないし」
 なぜかしどろもどろで答えると、「まじょこ」は占いには使わなかった束の、 いちばん上のカードをそっとつまんだ。
「あなたが持ってきたカード」
 そして、そのジョーカーを僕の前にすいっと指で押し出す。
 そのカードを裏返せば、犬とも人ともつかない影のような姿が隠れている。ノ リユキのジョーカーだ。
「これは、最後のカード」
「さいご?」
「そう。ここに52枚ある」
 言うと、「まじょこ」は残りの不ぞろいのカードの束を、絵柄が見えるように さっと扇形に展開させた。
 それぞれが違うトランプから引き抜かれてきた、それぞれ異なるカードだった 。人物画もあれば動物のもの、記号や文字、模様だけのものもある。人物でも全 身だったり半身だったり、正面だったり横向きだったりさまざまだ。
 だが、表すところは全て同じ。
 全てがジョーカー。
「……よくこれだけ集めたな。これだけ占ったってこと?」
「自分で手に入れたものもあるけれど」
 言いながら、「まじょこ」は愛しいものでも眺めるようにきゅうっと目を細め た。
 僕はその様子を見て思ったことをうまく表すことができない。可愛いわけでは ないのだ。でも、可愛いにかなり近い。いや、やっぱり違う気がする。ヘンなの だ。すごくヘンな感じだ。
「なんで集めてんの?」
「最後のカードは全てを変える切り札。何も聞かず何も見ず、誰にも愛されず、 全てを愛し、次の瞬間には全てを裏切る」
「……」
 僕はぽかんとしていた。「まじょこ」が何を言っているのか全くわからなかっ た。ジョーカーの話なのか? それとも、自分のことを話しているのか?
 その間にも絶えずゆったりとしなやかに表情を変える指。
 何でもいいから聞いていたいような気がする。
 いい気分だ。それなのに、ぼんやりしているから、その気分を心の底から満喫 することができない。ふわふわして、でもなんだかいい気分。
 僕はアルコールの味をまだよくは知らないが、「酔う」というのはこういうこ とではないかと思った。
「……おまえ、なんか変わってるよな」
「ありがとう」
 僕は自分のことを、正直だが少しオロカかもしれないとそのとき思ったのだが 、「まじょこ」の礼の言い方は心なしか指をほめたときより嬉しそうだった。本 当に変わってる。
「でも、そのジョーカーはノリユキのだろ。一人一枚じゃないの?」
「普段ならね。でも、今日は特別。もちろん、聞きたいことがなければもう帰る けれど」
「あ、待て待て。なんか考えるから。……んーとな、んーと……」
 僕は必死で質問を探したが、いろいろ考えれば考えるほどどれもがあまりにも 下らないことのように思えてきて、結局苦し紛れに出てきた質問は僕とは関係の ない内容だった。少なくともそのときはあんまり関係があるようには思えなかっ た。
「おまえ、好きな奴とかいねーの?」
「わたし?」
 そのとき、ふっと、一瞬だけ、「まじょこ」の顔に僕になじみのある表情が浮 かんだ。それはすぐに微笑の形に解けたが、その微笑はすでに僕のよく知らない 種類の不思議なそれだった。
「それを知ってどうするの」
「言いふらしたりはしないつもりだけど」
「……おもしろいね」
 何が、と尋ねるより早く、「まじょこ」は広がっていたジョーカーたちを広げ た動作を巻き戻すようにしゅるりとひとまとめに戻した。
「いいよ、教えてあげる」
「マジで!?」
 僕はそのとき何かちょっと期待してしまった……のかもしれない。
「いないよ」
 だから、「まじょこ」のその返事にはものすごい拍子抜けしてしまった。
「……あ、そ……」
 我知らず彼女のほうに乗り出していた上半身から、急にふいっと力が抜けた。
「せっかくのチャンス、つまらないことに使っちゃったね」
「んなことないけどさぁ。ま、いねーんならしょうがねーや。あ、ついでにもち ょっと訊いていい?」
「どうぞ。答えるかどうかは知らないけれど」
「あのさ、あー、そうだ、好きな季節は?」
「……秋」
「み、ミートゥー……なんて」
「あらそう。奇遇ね」
 僕の質問も返答も「まじょこ」の琴線のどこにも触れなかった。触れるわけも ない。「まじょこ」はすでにトランプをしまう体勢に入ろうとしている。僕はい よいよ焦った。
「あ、そうそう、おまえさ……えーと、あだ名があるだろ。そのこと、訊いても いいか」
 我ながらアホな質問だ。なんでまたこんなこと訊いてしまったのか。
「『まじょこ』ね。それがどうかしたの」
 全然動じない。こういうところは本当に可愛くない。……かっこいい。
「どう思ってんの、呼ばれて」
「嫌よ」
 間髪入れずに答えが返ってきた。
 そして、その答えは僕の期待していたものと違っていた。
 そのとき、妙に心が騒いだ。
 後悔ではない。後ろめたさでもない。哀れみでもない。
 どういうことかまるでわからないが、ともかく僕は彼女にぐっと惹きつけられ た自分の心を感じた。
「……」
 急に「まじょこ」が下を向いて、黒いまっすぐの髪がさらりとこぼれ落ちた。 「まじょこ」は口元に手を当てている。小刻みに肩が震え始めた。
「な、何? 気分でも悪い?」
 泣いているようにも見えて僕は焦った。よくわからないが傷つけてしまったの か? 女子の脆さ(とそれと同じぐらいの頑丈さ)や、気分の変化の激しさは僕 にとって大いなる謎だ。
「だいじょぶ?」
「いえ……あなたってバカだなって思って」
 よく見てみると、「まじょこ」はうつむいて笑いをこらえていたのだ。
「……はあ。まあ」
 ここまではっきりと面と向かってバカにされては怒る気にもならない。
 しばらく「まじょこ」は僕のほうを見ていたが、例のきれいな指で裏向けのま まのノリユキのジョーカーを僕にさし示した。
「このカード、返すわ」
「え?」
 僕は呆気に取られた。
「いいのかよ。めずらしいカードなんだろ」
「そうよ。でもいいの……もう」
 言って、彼女はトランプとジョーカーたちをトントンとまとめケースにしまい 、さらにそのケースをカバンにすとんと滑り込ませた。
 その一連の動作を僕はぼんやりと眺めていたが、「まじょこ」が席を立ち上が ったので慌てて自分も立ち上がった。
「家、どこだっけ」
「あなたとは逆方向。じゃあね」
 さらりと言い置いて、「まじょこ」は何事もなかったかのように、まるで僕な どいないかのように、本当にあっさりと教室を出ていった。
 僕は急いでジョーカーをカバンに押し込み「まじょこ」の後を追ったが、どう いうわけか彼女の背中に追いつくことはできなかった。

 家に帰り着きはしたが、試験勉強どころではない気分だった。もともとのやる 気の絶対量が少ないうえに、先ほどの「まじょこ」とのひと時が僕のすべてを弛 緩させていた。逆に言うと、僕はさっきまでけっこう緊張していたのだ。ノリユ キから電話があるまでノリユキのことをすっかり忘れているほどに僕は緩みきっ ていた。
 僕は携帯電話を持っていない。ノリユキは自宅の電話にかけてきた。よほど気 になっていたのだろう。母親に呼ばれて電話口に立つと、すぐに『どうだった? 』とノリユキの切羽詰った声がした。
「うーんとな、正直に言うぞ。覚悟できてるか」
『う……できてる』
 できてねーな、こりゃ。
 そう思ったが、嘘をつくわけにもいかない。
「そのまま言うぞ。……『ダメね』だとさ」
『……』
 電話の向こうでひゅっと息を詰める声が聞こえた。
 そしてしばらくノリユキは無言だった。
「でも、どうせ占いだろ。『まじょこ』がそう言っただけだよ。他の占い師なら 別のこと言うだろうし」
『いや……「まじょこ」が言うならそうなんだよ。うん。わかってたんだ……本 当は。高橋さん、好きな奴いるんだってみんな噂してたし。もう両思い寸前だっ て言ってたし』
「はっ? わかってて聞きに行かせたのかよ?」
 思わず大きな声を出してしまったが、ノリユキの耳には入っていないようで、 なにやらブツブツを繰り返している。
 僕はアホらしくなって「まー、がんばれよ。おまえまだ若いんだし、女子はタ カハシさんだけじゃないし」と適当なことを言ってさっさと受話器を置いた。

 一気に疲れが倍増して、僕は自分の部屋に戻るとひたすらごろごろすることに した。
 拍子抜けもいいところだ。ノリユキがたいしてショックを受けていないような のはよかったよいえばよかったが、結局一人で踊っていたような気がする。そも そもなんで僕はノリユキの頼みを引き受けてしまったのだろう。それで「まじょ こ」に笑われていたら世話はない。
「あーあ」
 でかいため息をついた拍子に、僕は「まじょこ」が返してくれたジョーカーの ことを思い出した。
 そういえばあのジョーカー、めずらしいものだって「まじょこ」は言ってたけ ど。ノリユキに返したほうがいいのだろうか。
 このままパクっておいてやろうか。下手に返して、本当は「まじょこ」に相談 しなかったのだろうと疑われるのも面倒くさい。
 それにしても、あの犬面人、なんだったっけ。どこかで見たんだ。どこかの神 様じゃなかったっけ?
 ほらこう、なんかこういう風ななよやかな手つきといい、長い指といい横顔と いい、あの衣装、杖のデザイン……。
 僕は畳に寝転んだまま、学カバンに手を伸ばし、かろうじて持ち手に指を引っ かけて引き寄せてくる。
「ん……しょ、と」
 もそもそとカバンの中をあさり、例のジョーカーを探り出す。
 これこれ。
 ノートやら教科書やらの間に挟まっていた一枚のカードを指で引っ張り上げる 。指が攣りそうになったが、ようやくカードの頭が見えてきた。
「あ?」
 僕は我が目を疑った。

 週明け月曜日。
 僕には予感があったのだが、それが外れてほしいと思っていた。
 いつも遅刻ギリギリの僕が教室に着く頃にはすでに着席している「まじょこ」 は、まだ登校してきていないようだった。
 だが、僕は今日はいつもより少し早く着いていた。「まじょこ」のことが気に なったからだ。そのせいだ。そうに違いない。
 もうすぐ来るだろう。もうすぐ。
 教室のドアを制服のスカートがちらつくたびに、僕はほとんど狂おしいような 思いでその女の子の顔を確かめたが、とうとう「まじょこ」はチャイムが鳴って も現れなかった。
 そして、ホームルーム。
 おはようございまぁす。
「あー、突然なんだがな」
 間延びした挨拶が終わると、担任は「まじょこ」の突然の転校を告げた。

 僕のもとに残されたカードは、なぜか真っ白になっていた。
 あの影は、「まじょこ」に差し出す前までは確かにあったあの人物の影は、い ったいどこへ抜け出していったのだろう。

「あのさ」
 まさかと思いながら、僕はノリユキに尋ねてみた。
「おまえがくれたジョーカーだけど」
「へ?」
 ノリユキは失恋が嘘のように元気だった。本当はどうということのない相手だ ったのではないかと疑いたくなってくる。
「ほら、『まじょこ』にやったやつ」
「あー、あれね」
「あれ、マジックに使うトランプとかじゃないよな? ほらこう、絵が急に消え たりする仕掛けとか、ないよな」
「何言ってんの?」
 呆れたような声にも僕は詳しいことは話さなかった。だが、ノリユキは僕がい つになく真剣だと思ったのか、「そんなんじゃないよ」と真面目に答えてくれた 。
「……そっか」
「あいつ、何か言ってたか?」
「え?」
「ジョーカーのこと」
「うん。めずらしいカードだって」
「だよな。エジプト神話をモチーフにしたトランプでさ。兄貴のだけど、もう忘 れてるみたいだからいいだろうと思って」
「へー、エジプトね」
「知ってるだろ。冥界の神だよ」
「ふーん」
 ノリユキはいろいろ話していたが、僕は全然興味を持てなかった。
 ジョーカーは「まじょこ」と行ってしまったのだ。
 あるいは、「まじょこ」はジョーカーと行ってしまったのだ。
「……でな、冥界に来た死者の罪を量るんだよ。そんで、そいつの心臓をこうぐ っと取り出してだな、天秤に載せるんだよ」
「へー」
「で、心臓が羽より重かったら、つまり罪を犯してるってことなんだけど、その 心臓は怪物に食われちまうってわけ」
「ほー」
「おまえ、聞いてねーだろ」
「そいつはすげーな」
 ……あ。
「……おまえ、惚れたな?」
 僕はそのとき、ふざけて「まじょこ」に告白してフヌケになった男のことを思 い出した。
 そして、そいつの気持ちが少しばかりわかってしまった……気がした。
 だが、惚れたかどうかというと、それはまた違うような気がする。もしかした ら、フヌケもそうだったのかもしれない。
「はー、ホレたとかハレたとか、そんな発想しかできないかよ。かわいそうだね 」
「何とでも言え。でも、おまえは『まじょこ』に惚れた」
「何とでも言え」
 僕がノリユキの口調をまねて言うと、ノリユキは急にニヤリと笑った。
「おまえさ、なんかちょっと前よりかっこよくなったぜ。なんつーの、こうちょ っと陰があるっての? 恋の力か?」
「ふん……惚れるなよ」
「アホか」
 そして、その日も普通に終わっていった。
 誰も「まじょこ」の話をしなかった。

 それは恋ではなかった。少なくとも僕はこの状態を「恋」とは呼ばない。呼べ ない気がする。呼びたくないのかもしれない。もっともっと不確かで漠然として あやふやなものだ。
 僕は「まじょこ」のことを何も知らない。
 ただ、僕は彼女に魅了された。
 彼女が去った今、僕の中には小さな空白が生まれていた。
 埋めることはできないだろうけど、だからといってたいした不都合を感じるこ とはないだろう。
 だが、僕の中の決して埋まることのないその空白を、僕は少しばかり不気味に 、だけどだからいっそう愛しく思う。
 今はひゅるりと風を通しているこの空白を、僕はすぐに忘れてしまうだろう。
 そして多分、何年、何十年かしてふと思い出すのだ。
 斜めに差してくる太陽が作るぬるい陽だまりや、するりと逃げていく華奢な影 や、部屋に入るとき感じる息苦しさ、ひらりとひらめき尾を引いて遠ざかるきれ いな指……そういったものを何かの拍子に目にしたとき、感じたとき、僕は「ま じょこ」が残していった空白を思い出すだろう。

 僕の生活にいつのまにか潜り込んでいたジョーカーに、僕は出会った。そして 、気づいたときには去っていた。僕の心臓をちくりと刺して穴を開け、去ってい った。
 それはどこかに潜んでいて、ちょいっと何かひっくり返したら知らん顔をして 逃げていってしまう。
 次またいつか会うことがあるのだろうか?
 それはまた「まじょこ」の姿をしているのだろうか。

 とにかくその秋、僕はジョーカーに出会い、そして別れた。
 それだけが確かなこと。
 他に確かなことはひとつもない。
 ひとつもなくなってしまった。
「まじょこ」の顔さえ、本名さえ、記憶の中から時々刻々色褪せ消えていこうと している。
 それでもいいんだ。
 それでもいいんだろう。
 でも、できればもう一度……。

 もう一度……。

 僕は少し切ない気分になる。
 そしてそれを、「秋だから」ということにしている。

 僕は秋が好きだ。


FIN