少年は綺麗なものが好きだった。 彼は、自分が綺麗だと思ったものを何でも集めてきた。 彼は綺麗なものが好きだったが、皆が綺麗と思うかどうかはわからない。 とにかく彼は自分が綺麗だと思えばそれでよかったので、時々変わったものも混じっていた。 彼は今日も、いろいろなところから綺麗なものを集めてきた。 烏の羽根、胡桃の殻、獣の牙、ちびた蝋燭、鏡の欠片、猫のひげ、涙の形をした琥珀、書き損じた手紙、犬の毛のほわほわした房……。 でも、今日いちばん心を惹かれたのは、描きかけの小さな油絵だった。 小さなキャンバスに、一人の少年が描き出されようとしている。 少年はそれを綺麗だと思ったわけではなかったが、なぜか心惹かれて持って帰ってきてしまったのだ。 新しい宝物を飾りつけたり箱にしまったりした後、少年はその小さな絵を壁に飾ることにした。 * * * * * 朝、人々は目覚めると戸口へ行って、「供え物」がなくなっているかどうか確かめた。 月のない夜には、「あの子」がやってきて、いろいろ取っていってしまう。どんなに戸締りをしても無駄なのだ。 だから皆、「あの子」が気に入りそうなものを寝る前に戸口に置いておく。 高価であればいいというわけではなく、彼が喜ぶかどうかだけが問題なのだ。 彼に好まれるのは、きらきらするものや(真贋にかかわらず)、壊れかけの玩具や人形、尖ったものなど。 翌朝それがなくなっていれば、彼は満足して帰ったということ。 彼がとても満足すれば、金貨や銀貨が置かれていることもある。少年は硬貨には美を見出さない様子だが、人間が金貨や銀貨を嫌いでないことをなんとなく知っているらしいのだ。 しかし、供え物がそのまま残されていたら、なくなっているものがないかどうか家中を探し回らねばならない。それは意外に困難で、気の滅入る作業だった。 その夜、いちばん高価なものを取られたのは、町いちばんの富豪だった。 彼らは戸口に警備を置いていたが、それはもちろん少年の気に入りはしなかった。 必ず捕まえろと、月の消える夜には警備を厳重にするが、そのたびに高価な宝石や人形や剣を取られていた。 今回取られたのは、大きなサファイア。奥方のペンダントについていたもので、「あの子」は銀のチェーンやそれに下がっているいくつもの小さなダイアには目もくれず、深い青を静かにたたえたサファイアだけを取っていった。 奥方は半狂乱になって、夫を責め立てた。 このままでは、安心して眠れません。必ずその子を捕まえて、私のサファイアを取り戻して。 ところが、「あの子」がどこにいるのか誰も知らない。 山に住んでいると言う者もいれば、いやいや海に住んでいると言う者もおり、地の底だとか森の奥だとか、皆いろいろに言い合うだけで、誰も確かめたことはなかったのだ。 奥方は寝込んでしまい、富豪は怒り、彼は町中を探させた。 少年の姿はどこにも見つからなかったが、少年のことを知っている老女がいた。 その老女はかなりの高齢で、一日のほとんどを眠るように過ごしていたが、時折昔話を始めることがある。 その子はなぁ、墓の底に住んでおってなぁ、いつも綺麗なものを探しておるんじゃ。 その子はなぁ、父も母もおらん子でな、墓場で生まれたんじゃ。 あの子になんかやってやれ。 そうしたら、あの子が喜ぶで。 そうしたら、あの子が守ってくれるで。 老女の話には脈絡がなく、意味も理解しがたかったが、ともかく「あの子」は墓地にいるらしい、ということを富豪は知った。 富豪は早速、墓地を捜索させた。 だが、命じられた者たちはまったく乗り気がせず、日が沈むまでおざなりな捜索をして「おりませんでした」と報告した。 富豪は憤って、その夜自ら墓地へ出かけて行き、「盗人め、姿を現せ」と大声で呼ばわった。 翌朝、人々が恐る恐る墓地に行ってみると、富豪は墓地の真中辺りにへたり込んでいた。 話しかけても、空を向いてなにやらぶつぶつつぶやいたり、意味不明の薄ら笑いを浮かべたりするだけで、こちらの声が聞こえていないのか反応を見せない。 これは「あの子」にやられたんだ、と人々は恐れながらも、ともかく富豪を彼の豪邸へと連れ戻した。 ところで、その富豪の豪邸の近くに、小さな今にも壊れそうな家があった。 そこには若い画家が住んでいた。 若い画家が戸口に置いていたものは、そのまま残されていた。 おかしいな、気に入らなかったのかな。 画家は苦笑いしたが、もとより取られて困るようなものなどひとつもない。 なくなっているものを探すこともなく、今日も描きかけの絵に向かおうとして、目を丸くした。 まさか絵を持っていかれるとは思っていなかった画家は、うれしいような困ったような複雑な気分だった。 ぼくの絵は、彼にとって綺麗なものだったわけだ。 そう思うと、やはり少し笑みがこぼれた。 不思議な気分だ。 なぜと言って、画家の絵には、彼が幼いころに垣間見た、その少年自身の姿が描かれていたのだから。 その次の月のない夜までに、画家は記憶をたどってようやく少年の絵を描き終えた。 絵を売らなければ収入はないが、その絵は少年にあげてしまってもいいと思った。 ……さて。 月のない夜、画家は描き上げた絵を、戸口に立てかけておいた。 彼が持っていくかどうか、楽しみでもあり不安でもある。 その夜、画家はなかなか寝つけなかった。 あの幼かった夜も、とにかくその少年を見てみたくて眠れなかったのだ。 絶対に「あの子」の姿を見ようとしてはいけないよ、連れて行かれるよ、と祖母があれほど言ったのに、どうしてぼくは言いつけを破ってしまったのだろう? 今となってはちっとも思い出せない。 画家がその夜何度目かの寝返りをうったとき、戸口でコトリ、と物音がした。 来た。 きっと彼だ。 画家ははっと身を固くした。 彼は絵を見ただろうか? 見たはずだ。持っていってくれるだろうか? おかしなことだ。 これまで、少年が立てた音など聞いたこともなかった。 いつも、月のない夜はいつのまにか明けてしまう。魔法にかかったように皆が眠りについてしまうのだ。 とん、とん ノックの音がした。 画家は立って、そうっとドアを開けた。 戸口にはいつか垣間見た少年が、いつかの姿のまま立っていた。 「こんばんは」 なんとかそう挨拶したが、少年は何も言わなかった。手に長方形のものを持っている。 それは画家が戸口に置いた、少年を描いた絵だった。 「あ、あの、その絵。君を描いたんだよ」 言うと、少年は首をかしげた。 言葉がわからないのだろうか? 画家は少し不安になったが、少年はややあってにっこりと微笑し、こくりとうなずいた。 「よかったら、持って帰って……ほしい」 少年はまたうなずいて、それから画家に向かって手招きした。 「ついてこいってこと?」 少年は返事もせずに、踝を返して歩き出していた。 画家はぼんやりと、少年の背中を追いかけた。 空には月はなく、星の光も驚くほど弱い。 少年はゆったりと歩いているようだったが、画家が歩みを緩めても速めても、その距離は広がりも縮まりもしない。 少年は墓地に向かっているようで、これはいよいよ「連れて行かれる」のだ、と画家は思った。 祖母が言ったことは本当だったのだ。少年を見たものは、連れて行かれてしまうのだ。 だが、どういうわけか怖いという思いはなく、逃げ出そうという気もしない。 それよりも、少年が彼の住まいにどんな綺麗なものを集めているのかを考えると、胸がときめくようでさえある。 墓地はひっそりと、悲しいほどに静まり返っていた。 少年は墓地をするすると進んでいき、いちばん暗い一角にある墓の前で立ち止まった。 そして画家のほうを振り返り、自分の目を指差し、目を閉じてまぶたを押さえた。 「目を閉じろってことかい?」 少年はうなずいた。画家は不安がないではなかったが、そっと目を閉じた。 すると、ずず、と重い石が動くような音がした。 かと思うと、何かが画家の手に触れた。その思いがけない冷たさに打たれて、彼は思わず声を上げそうになった。その冷たいものは、画家の手をそっと引いた。 少年の手だ。 そこで初めてそれに気づいた。人間のものとは思えないような冷たさだったのだ。 「も、もう、目を開けてもいい?」 問うと、手の甲をきゅっとつねられた。 「……駄目なんだね?」 やはり答えはなかったが、少年はなおも画家の手を引いた。 爪先が地面から浮き、足が地の縁にかかったのを知った。 どこへ向かっているのか考えないようにしながら、慎重に石段を下りた。 数段下りたところで、頭上で先ほどの石を擦るような音が聞こえた。 「もういいよ。目を開けて」 画家は初めて少年の声を聞いた。 恐る恐る目を開けると、足元遥かに階段が渦巻きながら伸びている。 ところどころに青白い火の玉のようなものが浮かんでいる。暗いながらも、階段を踏み外すことはなさそうだ。 少年は黙々と階段を下りはじめ、画家もその背を追った。 ほどなく、時間の感覚も距離の感覚も、まったく失われてしまった。 どのぐらい時間が進んだのか、どのぐらい下りたのか、まるで見当もつかない。 無限に続くように思えた階段も、やがて地面に突き当たった。 地の底にたどりつき、通路を少し進むと、扉があった。 少年は扉を開き、奥の部屋へと画家を招き入れた。 土壁の冷え冷えとした、暗い部屋を想像していた画家は、まったく驚いてしまった。 地の底から急に、富豪の家の一室に出てしまったような、すばらしく居心地のよさそうな部屋が目の前にあったからだ。 そのうえ、柔らかなランプの灯りに照らし出された部屋は、少年のお気に入りのものでにぎやかに飾り立てられている。 その飾りようが、いかにも楽しそうで子どもらしく、画家は思わず微笑をこぼした。少年がうれしげに飾りつけている様子が目に浮かぶようだった。 そして画家は、壁に描きかけの少年の絵が飾られているのを目にした。 それに気づいたのか、少年はちらりと画家を振り返った。 「君は、ぼくを見たね」 「ああ。もっと小さいとき……20年以上も前かな。君はちっとも変わらない」 「そう」 少年はわずかに目を伏せて、それからまた視線を上げて画家を見た。 「どうしてぼくを描いたの? 黙っていれば、見逃してあげた」 「わからない。長いこと君を思い出すこともなかったのに、急にふっと思い出したら、どうしても描きたくなって。ぼくはね、……」 不意に涙がこみ上げてきて、画家は言葉を切った。 ひとつ息をついてから、また続ける。 「いろいろなものをなくした気がして、ね」 少年はぴんとこないような顔をしていたが、ちょっと眉をひそめて、画家に尋ねた。 「それは、ぼくが取っていったから?」 「違うよ。目に見えるものじゃないんだよ」 「そう。それはもう戻ってこないの?」 「わからない。でも、多分もう戻ってこない。……君はいいね。いつまでも変わらない」 「そう?」 少年は複雑な表情を浮かべて、手招きした。 部屋の奥にはまた扉がある。次の部屋があるようだ。 扉を抜けた先には、黒々とした通路が続いていた。 その細い通路を進んでいくと、広い横穴のようなスペースにたどりついた。 闇の奥に、青白い珠のようなものがいくつもいくつも浮かんでいて、そのそれぞれがゆっくりと時間をかけてわずかに明滅している。 少年は奥までずっと進んでいくと、くるりと振り向いてすとんと腰を下ろした。画家にはその姿が何かに飲み込まれたようにも見えた。画家は少し近づいて、そこに玉座がしつらえてあるのがわかった。ただし、どんな王も座ったことのないであろう、棘のない柔らかな茨で編まれたような玉座だった。 そしてまた、無数の青い珠が、天井と地とを繋いでいるように伸びている細い半透明の管状のものの中にあり、その内側から光を放っているのに気がついた。ひとつの管にはひとつの珠が包まれてあり、その珠は皆それぞれ違う高さで留まっている。その管は、珠があるところだけ膨らんでおり、そうでない部分はすぼまっている。そのために、青い珠は、遠目には糸を伝い落ちていく雫のようにも見えた。 「これは?」 画家が呆気に取られて問うと、少年は物憂げに手で払うようなしぐさをして答えた。 「これは、君たちだよ」 「え?」 「この珠が地面に落ちると、終わるんだ」 「終わる……?」 「終わると、みんなここに来る」 「じゃあ、ぼくのは……もう落ちてしまったってことかな?」 「かもね」 玉座に尊大に構えて、少年は悪戯っぽく笑う。 それからふと真顔になって問うた。 「帰りたい?」 「どうだろう。もっと絵を描きたいとは思うけれど」 「そう」 ふう、と息をついて少年は思案しているようだった。 画家は、今にもその指が気まぐれに命の珠をつまぐるのではないかと気が気でなかったが、少年のしなやかな手は肘掛に置かれたままぴくりとも動かなかった。 ややあって、少年は片足を玉座に上げて、そのひざを抱くようにし、そのひざの向こうから静かに言った。 「ぼくの話をしないと約束できるのなら、帰っていいよ。絵も駄目」 「約束を破ったら?」 「さあね」 とん、と少年は指で肘掛をひとつ叩いた。 「話を聞いた人や、絵を見た人は皆ここに来ることになるかな。もちろん君もね」 そう言って首をかしげたが、「ああ、でも」と続ける。 「どれがどれかいちいち面倒だから、適当に切ってしまうことにしようか」 少年の笑顔に、画家はぞっとした。 この子は本当にそうするだろう。 残酷とかそうでないとか、関係がない。彼には興味のないことなのだ。 「ここに来て帰った者はいない……ほとんどね」 「どうして、ぼくだけ特別扱いしてくれるの?」 「君がぼくを覚えていたから。覚えていて、描いたから」 少年はまたにっこり笑った。 ここに連れてこられたのはその絵のせいだと言いながら、今度はそれがうれしかったから帰してやろうと言う。 その矛盾していながらも明快な答えに、画家は苦笑いを浮かべるしかなかった。 これこそがぼくのなくしたものなのかもしれない、と。 * * * * * 画家は結局、無事我が家に戻ってくることができた。 少年はお土産と言って、遠い国の珍しい鳥の羽根をくれた。その大きな羽根には、青と緑の中間のような色をした目玉のような見事な模様があり、画家は大いに驚いた。 贈り物はもうひとつあった。 あるとき町を訪れた旅人が、同情半分で画家の絵を買っていった。旅人はその絵を大きな都市へ持って行ったところ、金持ちがその絵を気に入ってかなりの高値がついた。 それで画家はにわかに有名になり、彼は思い切って町を離れた。 はじめは注文どおりに描こうとも思ったが、結局彼は彼の好きなものしか描かないことにした。自分が綺麗と思うものをなんでも描き、それ以外のものは描かないことにしたのだ。 そのうちに、彼は自分が美しいと思うものの共通点を考えるようになり、それはつまり美について考えることだったが、そこにはいつもあの少年がいるような気がしていた。 画家は長生きをして、たくさんの絵を描いた。 二度と少年を描くことはなかったが、自分の作品すべてが少年に捧げられているように画家には思われた。 自分はすでに「連れて行かれて」しまったのだ、と絵が完成するたびに思った。 画家は最後に、見たことのない鳥を描いた。 あのときもらった羽根をもとに、それを持つはずの美しい鳥を可能な限り美しく描いた。 そして、それを何十年かぶりに戸口に置いた。 お迎えの足音が近づいてくるまで、画家は絵を描いていた。 前より少しは巧くなっただろうか? 自分が前に描いた絵はあまり覚えていないが、少年の姿はしっかりと覚えている。 少年はこれを見て、「約束を破ったね」と笑うはずだ。 その笑顔を思い浮かべて画家もちょっと笑みをこぼしたとき、コトン、と戸口で音がした。 「お入り。開いているから……」 * * * * * 翌朝、アトリエで画家は冷たくなっていた。 弟子たちは、画家が前日まで描いていたはずの異国の鳥の絵が消えていることに気づいた。 画家の幻の遺作には恐ろしいほどの値段がついたが、その絵は決して見つかることはなかった。 おわり |